采女祭り
池には柵などがなく、回りには柳が植えられ、近くの興福寺という寺の五重塔が臨めたりする。
浮御堂のボートに乗り損ねたあと、この池で采女祭りという行事が行われていることを知り、観に行くことに。
かつて奈良時代、天皇の妾だったはるひめという女性が、天皇の寵愛が遠のいたことを嘆き、猿沢池に入水した。天皇のはその魂を慰めるために、采女神社をたてた。年に一度、はるひめの霊を鎮めるために、藁のおおきな扇を花で覆いつくした花扇と呼ばれるものを猿沢池に投じる行事が行われる。中秋の名月の日に合わせて。
今日は曇り空であいにく満月をはっきりと拝むことはできなかったが、池に小舟が浮かぶ様子は幻想的だった。
声楽家の方が舟の上からはるひめのエピソードを朗読と歌で語られたり、古代装束に身を包んだ人々が雅楽の演奏とともに舟で池を二周された。
奈良は古の都であることに思いを馳せた。かつてこの地に天皇や貴族がいて、はるひめのように不遇な女性も、現代と同じように居たのだろう。
初秋の涼しい風に吹かれてそんなことを思った。
戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくしてそれに執着することである
戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくしてそれに執着することである。
吉田健一氏の言葉。
この言葉を知ったのは20年くらい前か。
当時渋谷系と呼ばれる音楽ジャンルがあり、その筆頭にピチカートファイブというユニットがいた。
私はずいぶんハマって聞いていたけど、彼らのアルバムの一つのサブタイトルにそのオマージュと思しき「戦争に反対する唯一の手段は、ピチカートの音と言葉。」というのがあり、そこから元ネタを辿った。
この言葉は、色んな意味に取れると思うが、最近は生活を美しくしてそれに執着しようとすると、雑念にとらわれる暇がなくなることに気づく。
紙一枚の向きを整えるだけでも、気持ちが整ったりする。
今日も帰ったら美味しいごはんを食べようと思う。
秋の浮御堂
今日は、奈良公園に行ってきた。
連れ合いがボートに乗りたい、と言ったので、浮御堂がある池の貸しボートをめざしたのだったが、あいにく営業終了となっていた。
営業終了時間の目安が日没なのだそうで、私たちが到着したのがギリギリ日没に間に合わない、なんとも残念なタイミングだった。
それにしても営業終了日没とは、、、。行く前に観光案内所に問い合わせてはいたが、どこを調べても営業してるかわからないという答えがかえってきたのも、頷ける。
仕方がないので、浮御堂のお堂の中で、とりとめのない会話を楽しんだ。
秋の始まりの緩やかな風が心地よかった。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
池の水面を眺めていると、鴨長明の方丈記の序文がなんとなく頭に浮かんだ。ゆらゆらと揺れる水面には、秋の空が、しっかりと映り込んでいた。